キヨスイ(@kiyosui_goraku)です。
エッセイ的な何かを書いていきます。今回は死について。
散文なので、おひまな時にご覧ください。
祖父、祖母の死
祖母が亡くなりそうです。オーソドックスな形だと2祖父、2祖母の家族形成になっているかと思います。
僕の場合、血の繋がった会ったことない祖母がもう一人いるが...この人は会ったことないからカウントしないでおく。
僕の顔は会ったことのない祖母に激似らしいが。
僕は今まで、祖父2人、祖母1人の死を体験している。だから今亡くなりそうになっている祖母が最後のグランド系なんです。
うちの家系が割と長生きしていて、早死にすることがない。だからみなさん老人と呼ばれる年齢まで生きているんですよ。
おかげで老人の死にはかなり慣れました。老人の死っていろいろと考えさせられることがありまして...今回はそんなお話。
老人の死ってだいたい同じなのかな?
80前後まで生きると、体のあちこちが衰退していく。老衰というやつですね。
僕の祖父、祖母はだいたいこうやって亡くなっている。だから、みんな同じ感じで亡くなっていくんですよ。
あとは脳がボケているか?ハッキリしているか?の違いくらいで衰退具合は大まかに言うとみんな同じ。
4人もそうなっていく過程を見ていると人間って最後はだいたい同じなんだな...ってすごいわかる。
どんな人生を歩んできていても、同じ結果に落ちつくんだ。って思う節がすごいあるわけですよ。
もちろん、80歳より全然前になくなってしまえば別ですが...
祖父、祖母の4人とも全く違う人生を歩んできていて、夫婦とは言えども考え方も全く違う。
それでも最後は同じになる。違いと言えば、死ぬときに人がどれだけ居るのか?くらいであろう。
このパターンにすごい考えさせられるんですよね。
最終的に同じならやっぱり好きなことを。
人間っていつ死ぬかわからない。僕だって明日死んでいるかもしれない。未来のことはわかりませんからね。
ただ、この記事では平均年齢まで生きると考えて書いていきます。
平均年齢まで生きたのち、最終的に同じような結末が待っている。
もちろん、本人からしたら全然違う結末って感じなのかもしれないけど、見ているこっちからすると大枠で囲むと同じじゃない?という気持ちは出てくる。
違う人生を生きてきたのに死ぬときは同じような状況になる。こういったのを見ていると好きなことをやった方が人生ってお得じゃんって強く思う。
いやいやな人生を歩んでも、大好きなことだらけの人生を歩んでも老衰して死ぬときは同じ。それなら好きなことに対して、チャレンジをしつづけるべき。
老人の死に際を目の前にすると、僕はこんなことを強く思っていた。
意外にもおばあちゃん子です。
僕、意外かもしれませんが超がつくほどおばあちゃん子でした。
両親は共働きだったので、保育園のお迎えとか全部おばあちゃんだったんですよ。小学生の時に学校から帰ってきて、迎えてくれるのもおばあちゃん。
同居していたおばあちゃんは、8年前ほどに亡くなっているんですけどね。
このおばあちゃんが亡くなった時に上記で書いたことを考え始めたんですよね。この時、縁起が悪い言い方をするとおばあちゃんの死にすごく感謝しました。
年齢も88歳だったので、現代だと長生きの方かと。
今回、また祖母(母の方)が亡くなりそうな状況で、最近お見舞いにいったんですが8年前に思ったことを思い返させてくれました。
「あぁ...やっぱ人間の最後ってこれか」って感じに。
「こうなるんだったら、好きなことだけやりたいよな。」ってね。
老人の死を経験している僕は幸せものかもしれない。
こういった経験を4回も順当にしているってある意味幸せかもしれない。
他の人だったら、物心がつく前に祖父、祖母がなくなっているってこともありえなくはないですからね。
僕は、全ての祖父、祖母の記憶がしっかりある。その人たちがどういう人だったのか?覚えている。
それで、亡くなるまでの経緯も見届けている。
これを4回できているっていうのは、幸せものですね。このお陰で好きなことをしていた方がいい。という考え方になっているのですから。
こういった経験がないと、なかなか気づけないのが人間の愚かさなんでしょうね。
僕が死ぬのはいつかわかりませんが、最終的に同じになるんだったら、まぁー好きなことをし続けてたい。
まぁそんな感じ。死ぬときはだいたい同じですよ。
今回のエッセイのあとがき。
言葉をかなり選んでここまで、書いてきましたが。
最後に言葉選ばないで書くと...
老人の死から学ぶものってたくさんある。
そしてチャレンジ精神が湧き出てくる。
それでは、また。